弊社でも扱っていますが、相変わらず人工知能(AI)や機械学習が世間を賑わわせています。最近では読唇術で人間の能力を上回ったなんていう話 が。「2001年宇宙の旅」の HAL9000 を思い出します。将棋や囲碁でも AI が人間に勝つようになり、「AI が完全に人間を上回るかも?」という話が現実味を帯びてきました。
技術の発展というのは凄いですね。

シンギュラリティ?

技術の発展速度はどんどん速くなっているから、このままある時点まで行くと無限に近い速さになる、というようなことが計算機が発展しだした初期の頃から言われています。
その概念は、特にその「ある時点」をヴァーナー・ヴィンジという SF 作家が 1980年代末に「シンギュラリティ」(Technological Singularity, 技術的特異点) と名づけたことで、広く知られるようになりました。

そして、2000年代に入って、レイ・カーツワイルという人が、「シンギュラリティは近い」(“Singularity is Near”) という本で「コンピュータの発展速度を考えると、2045年ころには一台のコンピュータの計算能力が人間の脳の計算能力を超える。そうすると、コンピュータ自身が自分の能力を上げられるようになる →シンギュラリティ!」という話を広めました。
もともとの「シンギュラリティ」の話ではその超加速度的な技術の発展は「何らかの形 (人間も含む) の超知性」が担う、という考え方でしたが、今現在よく取り沙汰されるシンギュラリティは、だいたいこの、AI に関連づいた話です。

まだまだ、人間ができるようなことならなんでもできる「汎用AI」までは道のりは遠いのですが、この調子ならあと30年もすればできていても不思議はありません。30年前のコンピュータを考えてみると、家庭用なら 8bit機が主力のころです。それと今の家庭にあるコンピュータを較べると…。

知性?

シンギュラリティに達したときのコンピュータはどんなものなのでしょうか?
知性で人間を超えるってどんな感じ?

基本的には計算しかやっていない (言葉を扱うときも記号を数字に置き換えて「計算」している) コンピュータが「知性」を持つといえるのか、というのはこれも初期の頃から議論されています。(人間的な) 知性を持つか否かの判定を、「相手が人間かコンピュータかを知らせずに人間の判定者に文字ベースで会話させて、区別がつくか否か」でやろう、というのが、今のコンピュータという概念を作り上げた人たちの一人、アラン・チューリングの考えた「チューリング・テスト」です。

昨今はチャットボットが流行りですが、たいていは反応の中に「プログラムらしさ」が見えてしまいます。それがなくなれば確かに知的に見えるかもしれません。

しかしこのテスト、今の技術だと「ボロを出さない (ごまかす)」「わざと人間っぽい間違いなどを犯す」などに特化することでパスすることも可能なので、イマイチかもしれません。この考え方が出てきたときにも、ジョン・サールという哲学者が「中国語の部屋」という思考実験を持ち出し、「記号を処理しているだけで、知性があるとは言えない」と反論しています。

でも「他者から見て知性があるように見える」と「知性を持つ」の差は何なのでしょう? 本質的な違いはないかもしれません。
ってか、僕はきっと突き詰めればないだろうと思っています。

逆に、あまりにも性質が違いすぎて会話はおろか、いかなるコミュニケーションも取れそうにない「ソラリスの海」(“Solaris”, スタニスワフ・レム) のような相手の知性の有無を判定するにはどうすればよいのでしょう? あちらは、人間を「知性のあるもの」と判定してくれるでしょうか?

意識?

知性と並んで人工知能が持つか否かが気にされるのが「意識」です。これも外からは判定しがたいものです。人によっては「知性を持つこと」と「意識を持つこと」を同一視しています。たとえ会話などを通じて「知的な振る舞い」ができても、「意識を持たない」なら知性はないとみなすのです。

また、人によっては、「意識」は特別なものであり、人工知能など人工的・物理的に作られた装置では決して持つことができない、という考え方をします。つまり意識は、この宇宙の通常の物理法則の外にある、という主張です。宗教的な香りがしますね。物理的・客観的に観測できない以上、科学的な手段では直接否定することはできません (「否定できない」ことは「正しい」ことを意味しないことに注意)。

この考え方に基づくと「人間とそっくりで、物理的な構造も行動も何から何まで区別がつかないけれど、『意識』だけがない存在」というのが考えられることになります。そうした存在には「哲学的ゾンビ」という名前がつけられています。実際にそんな存在はありうるのでしょうか?  未来の人工知能は「哲学的ゾンビ」のような存在なのでしょうか、それともそういう存在と意識を持つ人工知能の両方が存在したりするのでしょうか?

「自分」に意識があることは誰しも否定できないと思いますが、「他人にも同じように意識があるのだろうか?」というのはどうでしょう?  過去にこういう疑問を持ったことがある人も多いかと思います。

実は、世の中には哲学的ゾンビが紛れ込んでいるのかもしれません。というか、自分以外は全て哲学的ゾンビなのかもしれません。少なくとも今のところ、それを確かめる手段はありません。

さいごに

「人間と人間そっくりなロボットの違いとは?」のような問い、あるいは関連して「そもそも『自分』って?」というような問いは、
さまざまなフィクションでも取り上げられています。挙げだすときりがないのですが、とりあえず、最近の漫画の「AIの遺電子」(山田胡瓜) (週刊誌連載中、単行本4巻まで (2016/12時点)) と、グレッグ・イーガンの「ぼくになることを」をはじめとする SF小説を推薦図書として挙げておきます。あ、ちょっと違うけどヨシタケシンスケの絵本「ぼくのニセモノをつくるには」も捨てがたい:-)

以上、技研の (あ) っぽく見える、なにがしかの知性を持ってるかもしれない (ないかもしれない) 存在がお送りしました。